行動経済恋する行動経済学

恋する行動経済学 第2話

 翌日も、京子と大樹はシフトが重なっていた。

 京子は大樹をレジに残して、棚の整理をしていた。練習のためだと言って、大樹一人にレジを任せたのである。遠目にも、まだ仕事に緊張しているのがわかった。大樹は少し硬い、真剣な表情でレジに立っている。

 そこに買い物かごを持った恵奈が行く。買い物かごには、レジ打ちに手間がかかりそうな細かい商品がいくつも入っている。他に客はいない。そういうタイミングを狙った。

 大樹がレジを打つ間、恵奈が大樹に話しかける。

「昨日はビックリしちゃったよ。京子ちゃんが彼氏と別れたなんて知らなかったから。ねぇ、京子ちゃん、落ち込んでなかった?」

 京子に気を遣っている設定のため、恵奈の声は若干小声だ。しかし京子は耳をそばだてて聞いている。

「全然、大丈夫だって、笑ってましたけど……」

 大樹も小声で言う。

「そっか。京子ちゃんって、八つ当たりとか全然しないんだよね。いつも明るく振る舞っててさ。優しいんだよ。高校の頃から友達だけど、私も何度も助けてもらったし……」

 うなずいて話を聞きながら、大樹が商品のバーコードを読み取っていく。思ったより早い。恵奈はレジ横のお菓子をいくつか取ってかごに追加する。

「京子ちゃんってオシャレだし、人望もあるから、かなりモテるんだよね。だから、すぐ新しい、もっといい人が見つかるとは思うんだけど……」

 褒め方が白々しすぎないだろうか。京子はドキドキしながら恵奈の声を聞いている。コンビニスイーツの報酬でがぜんやる気を出した恵奈は、京子を心配する友達を演じながら、京子がいかにすばらしい女であるか、大樹に熱心にプレゼンしてくれる。

「ほら、駅前の『ラピネ』ってケーキ屋さんわかる? いつも行列で、すぐ売り切れちゃう。京子ちゃんってあそこのケーキみたいにいい子なんだよねぇ……」

 調子よく話す恵奈の言葉に、京子は少々呆れる。他に例え方がないものだろうか。

 会計が終わるタイミングを見計らって、京子が棚からレジに戻る。

 お釣りを受け取りながら、恵奈が大樹に、小声で言う。

「今の話、京子ちゃんに内緒ね。心配されるの、嫌がるから……」

 大樹がうなずく。

「じゃ、またね、京子ちゃん」

 恵奈は、京子にパチリとウィンクする。自分の演技に手ごたえを感じているらしい。恵奈は自信ありげな表情で、そのまま外へ出て行く。

 京子は恵奈に手を振りながら、大樹の表情を探った。はたして、今のでうまく『アンカリング』できたのだろうか?

「京子さんの友達って、すごくいい人ですね」

 大樹は屈託なく微笑んで言う。

うまくいったのかどうか、京子にはなんとも判断しようがなかった。今の言い方だと、私よりも恵奈の株が上がってしまっているような……。

 京子は悶々としながら仕事を続けた。

 しばらくして、京子は『デイリーデイリー』のフライドチキン、『デリチキ』がいつもより売れて減っているのに気づいた。特に新発売の辛口バージョン、『デリチキ ホット』はもうほとんどない。

「『デリチキ』の作り方ってわかるよね?」

「はい」

 大樹が答える。

『デリチキ』の作り方は簡単だ。袋から出して、決まった時間、フライヤーで揚げるだけ。

 客が来て、京子がレジ打ちをしている間に、大樹が『デリチキ』を作り始める。

 京子がレジを打ち終え、商品を渡して客を見送った時、大樹が声を上げた。

「熱っ!」

 ハッとして京子が振り返ると、大樹が右手を押さえている。

「ちょっ、どうしたの?」

「あ、ちょっと油がハネて……」

「火傷したんじゃないのっ?」

 京子が見ると、大樹の右手の甲が赤くなっている。

「このくらい、大丈夫です」

「だめだよ、早く冷やさなきゃっ!」

 京子はカウンターの流し台まで、大樹の手を引っ張って、蛇口をひねって大樹の手に水をかけた。

「あのね、火傷した時はすぐ冷やすの。大丈夫とかじゃなくて……」

 まるで弟を叱るお姉ちゃんのようだな、と京子は思う。

 そんな京子のことを、大樹がジッと見ているので、京子は聞いた。

「……何?」

「山之内さんって、本当に優しいんですね」

 嬉しそうに大樹が微笑んだ。

 恵奈のアパートは小奇麗に片づけてあったが、部屋の真ん中に、デンとこたつが居座っていた。テレビがついていて、刑事もののドラマが映っている。

 大樹と別れて『デイリーデイリー』を出た後、京子は恵奈のアパートに来ていた。賞味期限の切れたスイーツを(建前上はもらってはいけないのだが)もらったので、協力の報酬として届けにきたのである。

 京子と恵奈は、こたつに入って向かい合って座っている。恵奈は、京子の持ってきたコンビニスイーツをこたつの上に並べて、どれから食べようか、心の底から嬉しそうな顔で眺めている。

 そんな無邪気な恵奈を見ながら、京子は言った。

「……これはマジでイケると思うんだよ」

「だよね! 私もそう思う」

 恵奈は並べたスイーツの中から、チーズクリーム入りシュークリームを手に取る。

「私もこれは絶対にイケると思う。間違いなくめっちゃおいしい!」

「……いや、バイト先の男の話」

「あ、川辺君のこと?」

 京子はうなずいて、火傷を冷やした時の、大樹の微笑みを思い出す。

「かなり好印象を『アンカリング』できたと思うんだよね」

「やったじゃん! いいなぁ、もうすぐ京子ちゃんも彼氏持ちかぁ」

「いやいや、話が早いって」

「でも、川辺君に、京子ちゃんがすっごくいい女だって思わせることができたんでしょ。そのすっごくいい女の京子ちゃんが失恋中ってなったらさ、川辺君もほっとかないよ」

 恵奈に言われて、京子の内心も浮かれ始める。もしかして恵奈って、人を褒める才能があるのじゃなかろうか。

 しかし、その時、テレビから渋い声が響いた。

「油断しちゃいけねぇ」

 ハッとして京子はテレビを見る。ドラマはちょうど、ベテラン刑事が若い刑事たちに説教をする場面であった。

 深い皺が顔に刻まれた貫禄のある俳優が、若手アイドル俳優を睨みつけて、ドスの利いた声で言う。

「ちょっとうまく行ったからって浮かれやがって。ちょっとでも油断してみろ。すぐにひっくり返されるぞっ!」

 シュークリームをかじりながら、恵奈が言う。

「ねぇ、今日の私の演技、この役者さんより、うまくなかった?」

 恵奈は得意げに微笑んで画面を観ていたが、京子は真剣な表情になって、画面を見つめていた。

 そうだ。そうなのだ。京子は沢渡教授の講義を思い出していた。

『アンカリング』の効果は非常に強力だと教授は言っていた。しかし、対処法がないわけではない。

「油断大敵」

 京子は呟いた。

「え?」

 テレビから目を離して振り向いた恵奈に、京子は言った。

「例えば『通常価格10000円』と並べて『割引価格7000円』って書いてある値札のついている服があったら、お得に見えるよね」

「うん。『アンカリング』の話でしょ?」

「そう。その『アンカリング』された赤くてきれいな服。普通より3000円も安くなってる! でもそこで、ちょっと冷静になって考えてみる。そういえばこの間、同じような赤い服を買ったな、とか」

「あー、わかる。似たような服を持ってるのに、忘れて衝動買いしちゃうことあるんだよなぁ」

「体にフィットするタイプだから、ちょっと体形が変わったら着れなくなりそうだな、とか」

「ある! 買ってしばらくしてから着ようと思ったら、体が入らなかったり!」

「他の服と合わせづらそうだなとか」

 恵奈が、チラリと、部屋のクローゼットの扉を見てから言った。

「もしかして、うちのクローゼットの中、見たことある?」

「いや、見たことはないけど……とにかく、じゃあ、その服を『7000円』で買う?」

「買わない!」

「元は『10000円』だからお得だよ?」

「いやいや、そんな服、『7000円』じゃ高いよ!」

「つまり、こういうこと」

「え?」

 キョトンとする恵奈に、京子が言う。

「たとえ高い値段を刷り込んだとしても、買う方がその商品の悪い部分を意識して考えると、刷り込みの効果が消えちゃうわけ」

『アンカリング』に反するようなことを、意識的に考える。それが『アンカリング』を外す効果的な方法。

 買い物をする時、高い値段で『アンカリング』された商品に対して、頭の中で、その商品が逆にもっと低い値段だった場合のことを考えてみたり、あるいはその商品の欠点に注目してみたりすることで、『アンカリング』に惑わされない冷静な判断ができるようになる。

 自分が買い物をする場合はそれでいいのだが、大樹にそれをやられてしまうと、京子にとっては非常に困ったことになる。

「つまり、とりあえず今、川辺君に私がいい女だって刷り込めていても、川辺君が、私を嫌な女だなとか、モテなさそうだな、と意識しちゃったら、終わりなの」

 京子は真剣な表情を浮かべて言った。

「じゃあ、まだ気は抜けないってことだ」

 そう言って恵奈がシュークリームをかじると、クリームが飛び出て恵奈の口の周りについた。恵奈は気づかずに、口にクリームをつけたまま、京子に釣られて真剣な表情を浮かべている。

 京子は思わず吹き出しそうになったが、何とかこらえた。笑うと気が抜けてしまいそうだ。京子は気持ちを引き締めて言った。

「そう、まだ油断できないの」

 次に京子と大樹が一緒になったのは、三日後の夜のことだった。

 客足が落ち着いている時間帯、カウンターで休憩がてら大樹と京子は話をする。

「まだ、あんまりこの辺のお店、知らなくて」

 大樹が京子に言う。

 その日は、仕事の質問やちょっとした雑談など、大樹の方から積極的に京子に話しかけてきていた。『アンカリング』が効いているのだ、と京子は思った。大樹は京子を頼れる先輩のように認識してくれたのではないか。この好印象を壊さないようにしなければ。

「結構、いろいろあるよ。この辺だとね、『タージマハル』ってインド料理のお店とか雰囲気がよくて……」

 何気ない風を装って京子は大樹に答える。実のところ、京子はその店に行ったことがない。大樹の質問に備えて、いい女が行きそうな(と京子が思う)店をネットや雑誌で調べておいたのである。もちろん、料理屋ばかりでなく、ブティックや喫茶店も調べてある。抜かりはない、と京子は思った。

「あ、そのお店、この間、雑誌で見ました」

 大樹に言われて、京子はギクッとする。メディアに紹介されたものに飛びつくミーハーな女だと思われるのはマズい。

「結構、人気のあるお店だからね。よく紹介されてるみたい」

 私はそれを見たわけじゃないけどね、という調子で、京子は言う。

「結構からい料理を出すんじゃありませんでしたっけ?」

「料理によるよ。からくないメニューも沢山あるし」

 ネットの口コミに書いてあったことを京子はそのまま言う。

「実は僕、からいの大好きなんですよ」

 大樹が言う。

「山之内さんは、苦手ですか?」

 京子は一瞬、答えに迷った。正直、からいものはかなり苦手である。しかし、ここで味覚の趣味が合わないと思われるのは、得策ではない、と京子は思った。油断はできないのだ。

「いや、私も大好きだよ。からいの」

「本当ですか? 結構イケます? 激辛みたいなのとか」

「イケる、イケる。喜んで食べちゃうよ。大好物」

 京子は微笑んで言った。私って女優だなぁ、と思いながら。

 その日のバイト終了時、次のシフトの人との引き継ぎを終えて、京子がレジ奥の事務室で帰り支度をしていると、遅れて大樹がやって来た。

 手には『デリチキ』をふたつ持っている。

「お疲れ様です。あの、これ、この間のお礼です。火傷した時の」

『デリチキ』を大樹が京子に差し出す。

 京子はちょっと、笑いそうになってしまった。今、自分で買ってきたのだろうが、お礼にフライドチキンというのが、おかしかった。男子校の男同士の時は、定番のお礼の仕方だったのかもしれない。

「別にいいのに……ありがと」

 まぁ、こういう子どもっぽいところも、かわいいと言えばかわいいな、と思いながら、京子は『デリチキ』を受け取った。

 京子と大樹は椅子に座って、一緒に『デリチキ』を食べ始めた。しかし、一口かじろうとして、京子は手を止めた。しげしげと『デリチキ』を眺める。

「どうかしました?」

「……これ、『デリチキ ホット』?」

「はい、からいの好きだって聞いたんで」

 しまった、と京子は思う。

「あの、どうかしました?」

『デリチキ ホット』を見たまま動かない京子を、不思議そうに大樹が見る。

「……いや、これ、まだ食べてなくて、ずっと気になってたんだよね!」

 ここで嘘がバレるわけにはいかない。京子は『デリチキ ホット』にかじりついた。舌に焼けるような刺激が走る。京子は心の中で叫ぶ。私は女優! 私は女優! 私は女優!

「……おいしい!」

 京子は大樹に微笑んだ。心の中でのたうち回りながら。

 その後も、大樹とシフトが重なる度に、京子はヘマをしないように細心の注意を払った。『アンカリング』はちゃんとうまくいっているように京子には感じられた。

 ただ、京子がからい物好きだとも『アンカリング』されたらしく、激辛チップスなど、何かからい食べ物を見つけると、大樹が嬉々として、一緒に食べましょう、と言ってくるようになったので、京子は、自らの演技力をフルに使わなければならなかった。



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REVIEWS

評価

12344

良いと思うところ

おー^^前回に比べて、京子ちゃんがフラフラせずに直視できるようになりました*
こんなにすぐに書けるなんて、すごいですね!あと、シュークリームからの油断大敵の場面にもっていったのも、又おもしろい発想だなと◎

良くないと思うところ

直視できるようになったのですが*
細かい描写が少ない、会話じゃない所の文章の前後の「ブツ切り感が」(←伝わりづらかったらゴメンナサイ!(笑))たまーに、つまづきます。流れるように読めると、もっといいかなぁと、思ったりもしました◎
次も楽しみにしています♪

2018年1月14日 11時40分 takamin
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コメントの評価

 著者からの返事

コメントありがとうございます!とてもとても励みになります!

部分的な修正を重ねて書いているので、ブツ切り感が出てしまっているのかもしれません。次の更新分は修正が間に合うかわからないのですが、その後の分については、スムーズさを意識して書くようにしたいと思います。
技術的に拙い部分が今後も散見されると思いますが、ご指摘とご愛読のほど、よろしくお願いします。

2018年1月15日 23時35分 森久人
森久人
評価

12345

良いと思うところ

経済の勉強を恋愛にと言う考えは、とても楽しい考えだと思いました!
京子ちゃんと恵奈ちゃんに、素敵な彼氏が出来る事を願っています!

良くないと思うところ

悪い点では、全く無いのですが、個人的には、京子と言う名前は、響きが良いし、大好きですが、今の時代を考えると、子の付く名前は、大学生の設定では、あまり無い名前では?と思いました(笑)

2018年1月21日 3時25分 退会済みユーザー
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森久人
コメントの評価

 著者からの返事

返信がものすごく遅くなってしまい申し訳ありません!
コメントありがとうございます!
テーマの発想を褒めていただいて、すごく嬉しいです。
確かに、もしかして「子」の名前は古いかも……。
出版段階で名前の変更も視野に入れて考えてみます!
今後もよろしくお願いします!

2018年3月11日 23時30分 森久人
森久人
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