行動経済恋する行動経済学

恋する行動経済学 第5話

 京子が美緒に言った言葉に、嘘はなかった。美緒にわざわざ彼氏を恵んでもらうなんて、京子には絶対、受け入れられないことなのだ。それに、翼かと思った男も、ただのソックリさんで本人ではなかったのだし、未練も何もない、と京子は思った。

 思ったのだが、しかし、問題はそう簡単に解決しなかったのである。二日後の朝、京子は自分の部屋のベッドの中で頭を抱えていた。

 美緒に怒鳴ってからの二日間、京子の頭からは、隼人のことが離れなかったのである。ふとした拍子に、隼人の顔が頭に浮かんでくる。これには京子自身驚いた。頭に隼人が浮かぶたびに、京子は慌ててそれを振り払った。京子の意志に反して、京子の心は隼人に捕らわれてしまっているようだった。

 そして、今朝、京子はついにこんな夢まで見たのである。

 夢の中、夕暮れの桜並木、京子は息を切らして走っている。

 京子の走る先に、翼がいる。

 ちょうど『春恋ドリーム』のワンシーンと同じ状況だった。ただし、翼の姿が高校生から成長していた。つまりちょうど、隼人と同じ姿をしていたのである。

 ドラマのヒロインと同じように、京子は翼の胸に飛び込んだ。そのまま翼の手が、京子を抱きしめるはずだった。しかし、翼は京子を抱きしめなかった。京子が翼の胸に飛び込んだ瞬間に、そこにいたはずの翼が、ふっと消えてしまったのだ。

 翼が消えて、勢いあまって京子は転んでしまう。

「大丈夫?」

 翼の声がする。京子が顔を上げると、いつの間にか、目の前をバスが走って通り過ぎていく。その窓の中に、翼の姿がある。

 翼の横に、ひょこっと美緒が顔を出す。転んだままバスの窓を見上げている京子の方を向いて、美緒はニヤニヤと微笑んでいる。

 京子は慌てて立ち上がり、バスを追いかける。翼を乗せたバスはどんどん遠ざかっていく。京子は息を切らして走り続ける。京子は窓の中の翼に向けて声を振り絞った。

「待って、待って、待ってよ! 行かないで!」

 バスに向かって必死に手を伸ばしたところで、京子は目を覚ました。ベッドの上で、夢の中と同じように京子は手を伸ばしていた。京子は情けなさと怒りでそのまま頭を抱えてうめいたのだった。

「クレジットカードなんだよ。翼くんの顔は、私にとって」

 その日の午後、学食で恵奈と一緒に昼食を食べながら、京子は言った。

「え? どういうこと?」

 恵奈がチキンカツ定食を食べながら言う。京子はため息を吐いてから、話しはじめた。

「この間、講義で聞いた話なんだけど、クレジットカードで買い物をする時と、現金で買い物をする時、人はどっちの方がお金を使いやすいと思う?」

 京子が言うと、恵奈はすぐに答える。

「それは、クレジットカードの時でしょ」

「その通り。クレジットカードは人にお金を使いたくさせるの」

「クレジットカードで払う時は、財布に何円入ってるか気にしなくていいから、安心して財布の紐がゆるんじゃうんだよね」

「なるほど。でも、財布の紐がゆるむのは、クレジットカードで支払う時だけじゃない。クレジットカードを見るだけで、お金を使いたくなっちゃうって、知ってる?」

「え、それは嘘でしょ?」

 食事の手を止めて、恵奈は京子を疑うように見つめた。

「オカルトっぽいけど、本当の話。こんな実験があるの」

 京子は話を続ける。

「参加者に商品の写真を見せて、いくらならその商品を買うかたずねる。その時、テーブルの上に、参加者に見えるようにクレジットカードのロゴを置いておいたのね。別の実験で使うものだって説明して。それで、答えてもらった金額を、クレジットカードのロゴを置いてないテーブルで同じように質問された人たちが答えた金額と比べてみると……」

「クレジットカードのロゴの置かれたテーブルで答えた人の方が、高い金額を答えた?」

「その通り!」

「でもそれは、クレジットカードのロゴを見たから、クレジットカードで払う場合を想像して、参加者が答えただけじゃないの?」

「そう思うでしょ? でも同じ人が、こんな実験もしてる。今度は、人にチャリティーへの寄付のお願いをするの。寄付は現金でしてもらうから、カードを使わないことは寄付する方もわかってる。それなのに、クレジットカードのロゴがある部屋で寄付を頼むと、ロゴのない部屋で頼んだ時よりも、寄付に応じてくれる人の割合が2倍以上多くなったの。カードを使わない場合でも、カードのロゴが目に入っただけで、無意識に財布の紐が緩んだってことね」

「嘘ぉっ!」

 恵奈が驚いて、その拍子に、箸でつまんでいたチキンカツをテーブルの上に落としてしまう。慌てて箸で拾い上げる恵奈を見て、京子は思わず顔がほころんだ。自分の話で人が驚くのを見るのは想像以上に楽しい。京子は講義で調子に乗った時の沢渡教授の気持ちが少しわかった気がした。

「クレジットカードのロゴがあるお店で買い物をする時は気をつけた方が良いね。余計なものまで買っちゃうかも。クレジットカードを見ただけで、現代人はお金を使いたくなっちゃうんだから」

 得意げに言って、京子は恵奈に微笑んだ。

「そっかぁ。考えたこともなかった。今度から少し意識してみよ。ありがとう、京子ちゃんのおかげで、無駄づかいが減るかも!」

「どういたしまして」

 感心している恵奈を見て、京子は満足する。チキンカツに添えられたキャベツを頬張りながら微笑む恵奈を、京子はにこやかに見ている。が、やがてハッとして、慌てて話を続けた。

「いや、まだ話は終わってないんだった。その、クレジットカードと同じなの。私にとって翼くんは」

「どういうこと?」

 口にキャベツの切れ端をくっつけながら、恵奈が首をかしげる。

「クレジットカードを見ると、人はお金が使いたくなっちゃうでしょ。それと同じように、翼くんの顔を見ると、私は恋愛したくなっちゃうのよ! 無条件で!」

「ええっ?」

 恵奈が驚く。

「それ、同じかなぁ?」

「同じよ! 翼くんを見ると、恋愛したくなるように、私の無意識は『春恋ドリーム』によって仕込まれているの。それがただのソックリさんであろうと関係ない! だから頭から、あの隼人とかいう男のことが離れないの! ああもう!」

 ガシガシと京子は頭をかく。

「すでに美緒の彼氏である以上、もう隼人って男に用はない。問題は、隼人が翼くんに似ているせいで、私の心に引っかかっているってこと。隼人と一度、直接会えれば、隼人と翼くんが別人だってハッキリわかって、私の心も納得して解決すると思うんだけど」

「……私から、美緒ちゃんに頼んでみようか? 隼人くんと会わせてもらえるように」

 恵奈が言うと、京子は恨みがましい目つきでジロッと恵奈をにらんだ。「うっ」と恵奈は言葉につまる。

「いい? 恵奈。美緒に頼み事をするなんて絶対ダメ。特に男のことに関してはね。想像してみなさい。隼人に会わせてほしいなんて言ったら、美緒がどんな顔をするか。あのいやらしいニヤけ面で見下してくるに決まってる!」

 ドン! と京子はテーブルを叩く。食器が揺れて音を立てる。京子の勢いに押されて、目を丸くしている恵奈の口元から、くっついていたキャベツの切れ端が、ポトリと落ちる。恵奈が京子に聞く。

「じゃあ、どうやって会うつもりなの?」

 京子はため息を吐く。

「それを一緒に考えてよ」

 考え込むように腕を組んだ京子に、恵奈はさらに聞いた、

「……もしもだけど、会ってみて、いい人だったらどうするの? 京子ちゃんが本当に好きになっちゃうような人だったら」

「それは心配ないよ」

 腕を組んだまま、京子は言った。

「美緒の彼氏になるような男が、ロクな男のわけないじゃん」

「ええ……?」

 キッパリと言い切る京子を、呆れたように恵奈は見つめた。


「恋する行動経済学」は隔週月曜日更新です。

次回の更新は3月5日(月)です。

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REVIEWS

評価

12344

良いと思うところ

ほっー♪クレジットカードに例えたのはいいですね!数字がいっぱい出て来るより、わかりやすい^ ^それを、隼人くんに例えたのも◎

良くないと思うところ

ただ、例え現金で払うとしても。
クレジットカードを見る=クレジットカードで支払うことを想像するになる気がして(´-`).。oOその辺が、頭がちょっと、こんがらがりましたー。

takamin
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森久人
コメントの評価

 著者からの返事

コメントありがとうございます!
実際の実験では、クレジットカードの存在を意識していなくても
視界に入っているだけで無意識的に影響を受けてしまう……らしいんですが
もっと納得しやすい情報を集めて、わかりやすく書けるように頑張ります!

2018年3月5日 11時49分 森久人
森久人
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