行動経済恋する行動経済学

恋する行動経済学 第8話

「ちょっと驚いちゃって。私、美緒から聞いてたんで」

 と京子は隼人に言った。京子を見る美緒の目付きが鋭くなる。京子は怯まない。今、京子は美緒の弱点を握っているのだ。京子は言葉を続けた。

「隼人さんっていう素敵な彼氏がいるって。だから私、てっきり……」

 美緒が苛立たしげな表情で京子を見つめている。京子はだまされた仕返しができて、胸がすくような気分だった。

 しかし、京子の予想に反して、隼人は楽しげに笑い出した。

「美緒は相変わらずだな」

 意外な反応に京子は面食らう。

「ごめん、山之内さん。こいつ高校の時から、よくくだらない嘘をついて人をからかうんだ」

 大樹が美緒を見て言う。

「勝手に人を彼氏にするなよ」

 美希が大げさに肩をすくめる。それから京子を見て、美緒はいつもの顔でほほえむ。

「ちょっとふざけてみただけよ。ごめんね」

 京子は内心で歯噛みする。

 世間話を切り上げて、隼人と大樹が目当ての棚の方へ歩き出す。京子と美緒がそれに続く。京子の傍に来て歩きながら、美緒は小声で言った。

「残念でした」

 京子は美緒をにらみつけた。

 隼人の美緒に対する甘さは予想外だった。高校の頃から知っている仲だというのが大きいのだろう。京子は少しガッカリしたが、しかし、美緒と隼人がつきあっている、というのが嘘だっただけでも、喜ばしいことだった。まだ京子にもチャンスはあるということだ。わざわざ隼人を嫌いになる必要もない。自分の気持ちを我慢する必要がなくなって、京子はすがすがしい解放感を覚えた。

 と同時に、ハッと気づいた。京子は今日、隼人に対する恋愛感情を消すために、わざと悪い状況を演出した。悪い天候に酷い喫茶店……。悪い状況の中に一緒にいる『連合』 の効果で、隼人に対しても悪い印象を抱くように、自分をコントロールしようとしたのだ。しかし隼人の方から見れば、逆にその『連合』は京子に対して働く。つまり、隼人を嫌うために用意した今日の悪い状況は、逆から見れば、隼人が京子に悪い印象を抱く要因にもなるということだ。

 京子は愕然とする。せっかく隼人に対して何も我慢することがなくなったのに、隼人の方に嫌われてしまっては元も子もない。今日の後で、隼人が京子のことを思い出す時、あの嫌な天気の日の女とか、マズい喫茶店の女とか、ネガティブなイメージで認識されるのは避けたい。

 映画がおもしろかったのがせめてもの救いかも……と京子は思ったが、映画の途中で泣き顔を隼人に見られたことを思い出した。鼻水をダラダラと垂らした泣き顔である。きっと酷い顔だったに違いない。そう言えば、喫茶店でも京子が鼻からコーヒーを吹きだすのを見られてしまっている。

 今のままでは、隼人にとっての京子の印象は、嫌な天気の日に酷い喫茶店で会った鼻水垂れ流しの女、になってしまう! そんな女、名づけるなら嫌子(いやこ)だ。そうなると、京子のする他の言動まで全て、嫌子のやったことという印象で評価されてしまうのだ。

 ここから、巻き返さなければならない。いいところを見せなければならない。京子は焦って頭の中から、自分を励ます知識を探した。そして『ピークエンドの法則』を思い出した。

 これは、人はものごとの評価を、刺激の一番強いピークの部分と、最後の部分の印象によって決めやすい、という法則である。

 つまり、全体の印象があまりよくなかったとしても、ピークの部分とラストの部分だけ印象が良ければ、人はそのものごとをいいものだと評価する。

 例えばスポーツの試合で、自分の応援するチームが活躍する試合はおもしろい。その時、応援しているチームが活躍したり不利になったりをくり返して勝つ試合よりも、自分の応援しているチームがずっと活躍できず不利なまま、最後の最後で大活躍して逆転勝ちする試合の方が、おもしろい試合を観たという気になったりする。時間ではかると、一進一退の試合の方が、応援しているチームが活躍している時間は長いかもしれない。けれどそれは、一瞬の大活躍の印象にはかなわないのである。

 つまり、全体として不調だとしても、一回のピークで評価を逆転することが可能だということだ。『ピークエンドの法則』は逆転の法則だと京子は思った。隼人に対する京子の印象も、ここからひっくり返すことができるはずだ。


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