行動経済恋する行動経済学

恋する行動経済学 第8話

 隼人と大樹が目当ての棚まで来て服を選んでいる。京子と美緒も追いついて、一緒に服を選ぶ。大樹は新しいシャツとそれに合わせるアウターがほしいという。

 ここで、センスのよさを見せつけることができれば、隼人の抱く京子の印象を、いい方向に操作することができるはずだ、と京子は自分を奮いたたせた。大樹に一緒に服を選んでほしいと言われた時から、京子は男性向けファッション誌で多少の勉強をしていた。その付け焼き刃の知識を総動員する。

「これなんかどう?」

 京子が白地のジャケットを選んで大樹に見せる。軽いカジュアルなタイプのジャケットだった。ちょうど似たようなのを京子が読んだファッション誌のモデルが着ていたのである。

「これと合わせるならシャツはこれとか……」

 ファッション誌の記事を思い出しながら京子はシャツを選ぶ。モデルが着ていたとおりの服である。同じようにコーディネートすれば間違いはないはずだった。

「大樹くんには、黒い方が似合うんじゃない?」

 おもむろに美緒が口をはさんだ。美緒はサッと黒いジャケットを取って、大樹にあてがう。

「ほら」

 ウッと京子はひるむ。確かに、黒い方が大樹には似合うように見えた。

「確かに。それに大樹はよく汚すからな。黒の方が汚れが目立たなくていいかも」

 隼人が美緒に同意して、京子はさらに追い込まれる。

「これに合わせるなら、そうね……」

 美緒が手際よく数枚のシャツを選んで大樹に見せる。

「これなんかは、どんな服にも合うし、こっちのシャツなら少し大人っぽい印象になるわね。パンツはどんなの持ってるの?」

「あ、大体、ジーンズなんですけど……」

「それなら……」

 美緒は店員だけあって手慣れていた。手際よく大樹に服を見せていく。京子は何とか口を挟もうとするが、付け焼き刃の知識では、つけいる隙がない。

 結局、京子が何もいいところを見せられないまま、大樹は服を選びおわってしまった。

「じゃあ、このシャツと……」

 大樹が最終的に買う服を決める頃には、京子はガックリと肩を落としていた。この場所ではいいところを見せられそうにない。場をつないでチャンスを作らないと、そう思って、京子は隼人に言った。

「あの、この後、みんなで夜ご飯食べに行きますか?」

「あ、ごめん、夜は俺、用事があって」

 隼人が言う。終わった。もう駄目だ、と京子は思った。

 その時、大樹が言った。

「あと、山之内さんに選んでもらった白いのも買おうかな」

「え?」

 思わず京子は声が出た。

「とりあえず、黒いのが一着あれば足りると思うけど」

 美緒が言う。

「でも色々、試してみたいので」

 大樹がほほえむ。

 京子は恥ずかしくなった。きっと大樹は京子に気を遣っているのだ。その気遣いは逆に京子をみじめにさせた。

「いや、黒だけでいいでしょ。わざわざ二着も買わなくても」

 京子は大樹が手に持っている白い上着を取り上げようとした。

「そんなことないですよ」

 大樹が上着を京子の手から遠ざける。

 それが大樹の優しさだと京子にはよくわかった。でも今はその優しさがつらい。このままでは隼人に、後輩に気を遣われる女という、さらに望ましくない印象を持たれることになる。

「バイト代も高くないんだから、無駄遣いはやめなって」

 京子が上着に手を伸ばす。

「本当に、着てみたいんですよ」

 大樹が京子の手をかわす。これ以上、私をハズかしめないでくれ! と京子が思ったとき、服を動かして舞ったホコリが、京子の鼻をくすぐった。京子は慌てて自分の鼻を手で押さえた。

 次の瞬間、声を上げて京子はくしゃみをした。途端に鼻から、鼻水がデロッと垂れた。

 全員の視線が、京子の鼻に集まる。

 みんなが唖然とする中、美緒が、こらえきれないように吹き出した。

 慌てて京子はティッシュで鼻を拭う。映画館で隼人に渡されたティッシュをまだ京子は持っていた。顔が熱くなるのを感じる。

 今日三回目の鼻からの噴出であった。その全てを、隼人に見られた。終わった。完全に終わったと京子は思った。もう隼人の顔を見る勇気もなかった。

 結局、大樹は京子の選んだ上着も含めて、数着の服を買った。隼人の用事もあるので、そのまま解散という流れになった。京子は情けない気持ちでいっぱいだった。美緒がいつもの微笑みを浮かべながら、京子たちを店の出口まで見送りに来る。

 外に出ると、雨はやんでいた。しかし、空にはまだ灰色の雲が立ちこめていた。雲はゆっくりと重々しく流れている。その空は、京子の心境そのものだった。

 大樹と隼人が店先で美緒と話す声が聞こえる。服を選んでもらったことで、大樹の美緒に対する警戒も緩んだらしい。

 空を見上げる京子の目の奥から、じわっと涙が染みだしてくる。鼻水も垂れてきそうになる。それを京子は必死でこらえる。

 その時、流れる雲の裂け目が見えた。動いていく濁った雲の隙間から、ちょうど月が顔を出した。

「あっ……」

 京子は思わず声を漏らした。雲の向こうには、澄んだ空があって、そこにきれいな満月が浮かんでいる。

「うわっ、満月だ」

 隼人も言った。京子につられて隼人も空を見上げたらしい。続いて大樹も美緒も空に目を向ける。

「本当、きれいですね」

 大樹が言う。

「あ、でも、もう隠れちゃう」

 美緒が言う。

 雲は流れ続けていて、やがて裂け目から月は見えなくなった。

 隼人たちは空から視線を戻したが、京子はまだしばらく空を見つめ続けた。京子は、沢渡教授の講義を思い出していた。


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