行動経済恋する行動経済学

恋する行動経済学 第8話

 一番先頭の席に座る京子の目の前で、いつもどおり沢渡教授は講義をしている。

「『ハロー効果』は『連合』の一種と言えます。問題は人が、一部分の印象だけで、直接に関係のない部分や、ものごと全体の評価を決めてしまうということです。一部分の印象で全体の評価を決めてしまうという意味では『ピークエンドの法則』も同じでしょう」

 京子以外の生徒はみんな、相変わらず教室のうしろの方に座っている。そろそろ講義も終わる時間で、気が抜けてまじめに聞いていない生徒も多いだろう。教授は話を続ける。

「わずかな部分の印象で全てを判断してしまっては、大事なことを見落としてしまうかもしれません。できるかぎり、広い視野を持ってください。例えば、コインを投げて表が出たら10万円をもらえ、裏が出たら5万円払わなければならない賭けがあったとします。この賭けを一回だけならやりたいと思わない人が、百回繰り返すならやりたいと言う場合があります。視野を広げて大きく見ると、物の感じ方は変わるのです」

 教授が教室を見回して、さらに続ける。

「何事もそうです。一度の失敗や間違いにこだわりすぎるのは考えものです。今日が駄目な一日でも、一週間で見れば、素晴らしい一週間かもしれない。逆に細かく見れば、駄目な一日の中にも、素晴らしい一時間があったかも。あるいは、本当は駄目な部分は一日のうち三十分しかなかったのかもしれません。わずかな印象に捕らわれて、全部を駄目だと思うなんて馬鹿馬鹿しい」

 そこで講義の終了を告げるチャイムが鳴る。教授は少し照れたようにほほえんで最後に言った。

「私はそう考えて生きるようにしています。では、今日はここまで……」

 満天の星を見上げながら、あの時の教授のように、京子もほほえむ。講義を聞いた時は、教授にしては珍しく前向きな話だな、と思っただけだった。しかしその講義は今、京子を確かに勇気づけていた。

 今日一日の失敗が、なんだと言うんだ。今日、いい印象を作れなかったなら、明日作ればいい。明日も駄目なら、明後日作ればいい。今日が最後なわけじゃない。あきらめなければ、最後はどこまでも伸ばせるし、いい印象を与えるピークを作るチャンスはいくらでもある。まだまだ逆転はできるのだ。

 たった一日の失敗にこだわって、ものごとが終わったと思うのは、自分の勝手な認識だ。自分が終わりだと思わないかぎり、印象や評価なんて、いくらでもひっくり返せるはずだ。雲の向こうにはきれいな月が輝いていて、たとえ隠れても、いずれその切れ目から顔を出す。どれだけ厚くても、いつか晴れるのだ。

 京子は空から視線を外すと、大樹が美緒に服の話を聞いていて、隼人は会話から外れていた。京子は声を抑えて隼人に話しかけた。

「あの、今日の映画館で予告やってた『春のこもれび』っていう映画……」

 隼人が京子を見る。京子の心臓がドキドキと高鳴る。

「今度、また一緒に観にいきませんか?」

 隼人が答えるまで、わずかな一瞬だったが、京子は緊張した。

「うん、いいね」

 隼人がほほえむ。京子は心の中で飛び跳ねた。まだこの恋は終わっていない! しかし、突然、横から入ってきた声に、心の中の京子はズッコケそうになる。

「えー、私も行きたい」

 美緒だった。

「いいね、みんなで行こうか」

 隼人が言う。京子としては、もちろん隼人と二人きりが理想だったのだが、仕方がない。その場でみんなの予定を合わせる。しかし大樹だけ予定がうまく合わなかった。

「俺抜きで行ってください。実は、恋愛物ってあまり得意じゃないし……」

 大樹が申し訳なさそうに言う。

「なら、三人で行こうか」

 隼人が言う。

「仕方がないね」

 美緒が言って、挑発するような微笑みを浮かべて京子を見た。

 京子も真っ直ぐに美緒を見つめ返して言った。

「楽しみだね」

 まだ終わりじゃない。戦いはこれから始まるのだ。



「恋する行動経済学」は隔週月曜日更新です。

次回の更新は4月16日(月)です。


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